Column 2011.08.11
・岡村靖幸
80年代、90年代のJ-POPを語る上ではずすことのできないPOPSTAR。
40歳前後の方々はもちろんご存知ですね。
3度の覚せい剤での逮捕により活動停止・・・
2010年5月に出所し2011年8月にはアルバムが発売。
もちろん覚せい剤の使用は許された行為ではありません・・。
でもこれだけは伝えておかなくてはいけない事が・・・
それは岡村ちゃんが当時(80年代後半〜90年代初頭)
日本で恐らく一番と言っていいほどの
バスケットボールのポップアイコンであった事・・これは紛れも無い事実。
楽曲のいたるところにバスケが出てくる事はもちろん
ファンの集いをバスケにしたり、ステージにもゴールを持ち込みライブ中にシュート。。
ライブフィルム中のPV(1988年)では
恐らく日本で始めてのフリースタイルを披露。。
フリースタイルなんて概念は無かった当時において
パフォーマーとしても優れていた岡村ちゃんだから辿り着いていた境地。。
本当に驚愕のカルチャーミックスをしていたのです。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5719177 ←ニコ同w・・
バスケ界にての業績は
覚せい剤にて消されていってしまったのですが
バスケを愛する気持ちは当時は人一倍だったのです。
これだけでコラム一本分書けるのですが・・
せっかく立ち上がったばかりの「SIDE」
てんこ盛りで続けます。
岡村ちゃんが活躍した同時期1990年。。。
日本バスケに革命が起きました。
「スラムダンク」の連載開始。
そこに至る
「井上雄彦」さんとの切っても切れないバスケな関係。
スラムダンクのきっかけは「岡村ちゃん」!?
なんて話しを。
岡村ちゃんは井上さんの2個上(学年は1つ)
世に出るのは岡村ちゃんが少し早かった
「和製プリンス」※Prince(ミュージシャン)
と呼ばれ20際前後にはすでに頭角を現していました。
1988年のシティハンター2でのEDテーマ「SUPER GIRL」にて
一層メジャーな存在となるのですが・・
うん?
そう
詳しい方はお気づき・・
当時の北条司さん(シティハンター原作者)の事務所では
井上さんがアシスタントとして働いていたのです。
その中で書き上げた井上さんの作品
「楓パープル」がやはり「1988年」に手塚賞を獲得
井上さんも時代の表舞台へと出る事になるのだが・・・
だいたい皆さん
「楓パープル」ってなんで「パープル」??
って疑問になりませんでした??
そりゃ作中だけじゃ答えは出ません・・
たださっき僕が話した岡村ちゃんを持ち出すと
全てのなぞが解けていきます。
音楽詳しい方ならピンと来るはず・・
そう
岡村ちゃんは当時から
「和製プリンス」と呼ばれてました。
だから何?となりそうですが
プリンスが好きな人なら更にうなずくはず。
・・そうです、プリンスの代表作
「パープルレイン」
1984年のこのアルバム以降
プリンスのイメージはその中性的で妖美な風貌から
完全に「パープル」になるのです。。。
はいはい
だからって
プリンスから「パープル」が来たなんて・・わからんでしょ??
と、僕も思ったのですが・・・
そう
またまた
勘の良い方
ヲタな方ならピンと来る・・。
楓パープルでの主人公と同姓同名
スラムダンクにおいても中性的な印象の流川楓が自転車に乗りながら聴いている曲・・・・
そう
実はあの歌詞
「プリンス」なんです・・・。
おいおい・・だとしたら
このプリンスが、暗に日本でバスケをPRしている和製プリンス岡村ちゃんを指していたのかも・・
なんて思っても不思議ではない・・。
そう井上さんは、岡村ちゃんの大ファンだった説・・
・・・あるよね。
話し戻って
スラムダンクが1990年に連載開始すると
同年の10月に
「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」
岡村ちゃんの不滅の「バスケ青春ネ申曲」が生まれます。
まぁ実際の親交、影響を受けた、与えた・・・それはわかりません。
ただ
現在より明らかに面白いカルチャーミックスが行われた1990年。
ポップで怪しくて、魅力的な世界に二人は共存していたのです。
僕なら同年代で、バスケ好きのプリンス好き!って
揃っただけで大親友になれそう・・
ただ一点
「覚せい剤」を除いてですが・・。
・・・。
最後にですが
井上さんも絶対に思っていると確信してるメッセージを・・。
「岡村ちゃん、どうか今度こそ・・。なんならバスケで立ち直ってください。」
BY HIROTA(Ryzm)